鴨川

 ツイッターとニコニコの有象無象のクソ動画に毎日せっせと時間を粉挽きにして、おかげで出来た毎日の粉の出涸らしはかくも苦いものであったが、大体の大学生はここらへんで後悔し始める。らしい。

 こんなはずではなかった、もうちょい有意義な生活があり得たはずだ、そもそもなぜこうなった、あの時ああすればよかった、なぜあの単位を落とした、そも金がない、いや碌な友達がいない、食っては寝て大学に向かいまた帰る、学食が孤独、講義は頭に入らない、もう駄目だサークル行こう、バイトしよう、エロマンガ先生見よう、ところが誰も勉学に目を向けないという六道輪廻もビックリの不毛なループを多くの大学生は繰り返すのである。むしろそうしてくれ。かくいう私もその一人だ。責任者は誰だ、どこだ、つまみ出して吉田寮の鶏のエサにしてくれる。と意気込みだけはご立派な今日この頃である。

 

 世間の大学生は五月を境に不真面目になるだろう。なんといったってGWの存在は看過できない。大学生活の慣れ親しみかけたころ、そろそろへばってきたころ、色々な理由はあれどこの休みを逃さないわけにはいくまい。仲睦まじいアベック共はさぞかし何もない鴨川を見つめながら中身があるわけでもない会話をかわし蝶よ花よの休日をすごすことであろう。しかし私にはすべて遠縁無縁の絵空事、これらしい予定もないまま二回目の四月を駆け抜ける前に、青春取戻し型のような気持ちで一回目の春に逃した新歓、言うなれば大学生活における分岐のようなまやかしを手繰り寄せようとしたものの、粗方巡り終わったところでまた同じ幻想、すなわち「サークルに入れば何やらの能力を獲得できいずれは自らの血となり骨となり肉となる」というむなしい妄想を見たことに自分で自分に呆れ、悲しくなって空き樽のような伽藍堂の頭を叩けども叩けども鳴るのは間抜けな時計台のチャイムのみ。そうして私はGWを迎えた。

このまままた同じ一年を迎えそうで自分の高瀬川のような底の浅い思考にほとほと疲れ切っていたところで日課のインターネット放浪をしていると、過去の自分がことごとく打ってきて無駄にした布石の数々をここでも発見し、そうして見つけたのがd●ニメストアである。

GW、世間はさぞかし賑やかだろうが私は遠出とはほとほと無縁、無縁ではないのだが自ら計画し出向くことなどピンクの象を見ようとも月に魅入られようともまずない話である。せいぜいこの文章のように無駄口を叩くのが関の山である。やることと言えば申し訳程度の週明けの学業の予定を組むことともはや持病のごとき忌々しい口唇炎との格闘にインターネット放浪のみである。元よりそのつもりだったが打って変わって無駄打ちしたゴミのような布石の中に輝くもの光るものはあった。いかにもそれは有料アニメサービスなり。某けものをオスだろうがメスだろうが人間の女の子に強制TSF&擬人化する文字面だけでは狂気の沙汰、中身はビックリユートピアの作品を視聴するために契約し、ほったらかしにしていたサイトであった。某クソUNEIが運営しているクソクソ動画のやたらしつこいプレミアム勧誘よりは良心的な初期プラン(初回31日間無料)に料金も20%引きと良心の塊のようなサイトだったのでそのままにしておいたのだ。ラインナップも豪華、結構古い作品も見れてあの時以来見ようと思い放置していた作品が生協の食堂の油を上げることしか能がないバリエーションよりも遥かに豪華にまるで円卓の騎士たちが夢見た理想の城のように私を温かく出迎えてくれたのである。

本は読むのは嫌いではなく、ただ金の出し惜しみということで買うのを渋っていたのだがわが曇天のような思考を晴らしてくれるかのような本との邂逅もないわけではなく、四畳半神話大系もその例に漏れない。アニメをやってたということで生協の本棚で手に取ったのだが肝心のアニメを見ることが叶っていなかった。これはまさに絶好の機会である。

こうして私はアニメを見て過ごした。片手間に他のこともしながらも基本的にパソコンの画面に張り付き、順調に作品を溶かしていった。ことに四畳半神話大系は原作を読んでいたので思い入れ様は中々のものであり、オリジナル要素に一喜一憂しながらも、有意義な二十代の時間を無意義に溶かした。

 

私はどうしてこうなった、誰がこんな不当な運命に私を導いたのか、その答えは二つに一つ、人に聞くか自分に問うかである。

人に聞くのは直接聞くも良し、そも何も相手が生きている必要はなく、というか生きているか確認しなくてもよい。本に聞けば良い。

なので本をさらに拡大解釈してありとあらゆる著作物に私は答えを求めた。いろんな真実っぽい何かを見つけたが猫に小判豚に真珠浮浪者に自己啓発本で今までのところこの窮地を脱する答えは見つけられていなかった。しかしつい最近割とありがたい言葉を数多くのガラクタから見つけることが出来た。それはここまで長々とした文章を読んだ諸君ならなんとなくおわかりであろう、四畳半神話大系からである。それもそのはず大学生活に苦しんでいるなら大学生活を描いたものにフォーカスを当てればよかろうだったのだ。なぜこんな単純な事実に気が付かなかったのか、これこそまさに邂逅と呼ばずしてなんであろうか。大体の大学生活を描いた作品は私にピンと来なかった(別に私にそれらを貶める意図はない。フィクションに文句垂れる私が阿呆なのだ)ゆえに私は半ば諦めかけていたがそれもここで終わりである。なんだかわからんがこれも下鴨神社吉田神社の神の恩恵ということにしておこう。とここまでこの作品に感動し絶賛(?)したのは良いが、半日もしないうちにそもそもセリフの内容がうろ覚え、まるで霞のようになってしまった。樋口師匠のセリフだったはずだが該当する話が分からない。これも一気見のせいである。セリフを探そうとグーグルに飛び込んでみたら森見登美彦氏自体の考察という斜め上の展開が眼中に飛び込んでしまった。ショックでセリフも忘れた。まさに元の木阿弥。受験前には想像だにしなかった無能ぶりである。

こうなれば自分だけが頼りである。母から見聞きした星座とタロットの合わせ技の誕生日占いやよくわからない六星占術とかの古い技から最新の心理学に基づいたMBTI

(参考サイト:

無料性格診断テスト、性格タイプ詳細説明、人間関係およびキャリアのアドバイス | 16Personalities)

などの診断により自分の性格を再び顧みようと思う。まずは古典的アプローチ。誕生日は3月12日なのでうお座の吊るされた男(The Hanged Man)である。うお座は内向的で優しい人が多い一方浮世離れしているというか優しすぎるところがある。吊るされた男のカードの顔はこの状況になんら焦ったところがない悟ったような顔をしていること、逆位置になると一転して踊って見えることからカード的にはその状況が必要なものであるという意味…らしい。カードの意味に真っ先に試練やら英知やらが来る当たりこの日に生まれた人は試練が多いということなのだろう。試練なんぞ誰にでもありそうだがカードの逆位置の意味が不穏で(どのカードもそうだが)挫折やら自暴自棄やら欲望に負けるやらであまりよろしくない。となるとわたしの今の生活は逆位置とでも言いたいのかとタロット作成者に泥を投げてやりたくなったが嘆いても仕方はない。タロットばっかりは占いの中でも当たりすぎるらしく、そんなのハロー効果やらバーナム効果やらでだまされているだけな気がするが触らぬ神に祟りなしとは理系が聞いて驚くがあまり深入りはしないようにしている。母が抱えていた割と当たるらしい誕生日占いの本二冊によると頭が冴えてるらしく、他のページを見てもそんなことを書いてあるページはあまりなかったように思える、思えるが確信はない。そもそも頭が良いならこんな事態にはなっておるまいと焚書をしたくもなる。やはり占いはダメだ、前時代的だと今度は心理学に頼ることにした。今までの診断からすると私の性格はINFJ(提唱者)中心でINTJ(建築家)やINFP(仲介者)にぶれたりする。割とその日の気分で変わっていやがる。倫理と人情が拮抗しているような診断結果が多いので誤差は微々たる差であろう。人の性格というのは一定の芯はあれど多少は変動するものである。古代から人の性格について、人類は占いでアプローチ心理学で分析その他多くのことをやってきたのだろうがそんなもんで縛られるほど人は甘くはないということが自分が実証してしまった。自分の中身にある程度のブレを認めたと同時に逃げ道もなくなったこともついでに示してしまった。占いと心理学の合わせ技で逃げ道がないのか自分で無くしたのか、それは上賀茂神社の神馬にでも聞いてほしい限りである。

 

 激しい自分との闘いの果てに、私はどこに向かうのか。もはやわかるまい。一回生の時にこれでもいろいろ手は尽くしたはずである。

下鴨幽水荘の住民にもなれなかった。泊まってみたけど割とふつうだった。

色んなサークルの分岐があっただろう。そんなに選べるはずがなかったさ。

ぬらりひょんのような友人はいなかった。とどのつまり友人とは共に徹夜でゲームが限界である。

黒髪の乙女なんぞ夢のまた夢。生ゴミのような息をした女にはあったことがある。

みょうちくりんな八回生も、カリスマ振りまく先輩も、酔うと変貌する美人のお姉さんもいない。ただ私が会った七回生の女の人は妙なカリスマがあったかもしれない。元気だろうか。

このまま私は果たして何になるのか、それは私にもわからない。今の自分の可能性を切り詰めていった先にはただただ広い鴨川が広がるのみである。全てを飲み込みゆるやかに流れる鴨川である。切り落とした可能性という可能性、可能性という名の分岐点を有無も言わずに飲み込んでいった。空には相変わらず鳶が飛んでいることだろう。

人は空を飛ぶことは出来ないというのは脳噛ネウロのアイのセリフである。

つい半日前に感銘を受けた樋口師匠も可能性について言及していた。まだ思い出せないが、二人ともセリフの趣旨はおんなじであろう。

 

現実を受け入れて、未来を見据えよということだ。

 

知ることは制限されることであり、偶然と慣習の奴隷から解放されることでもある。

アイはサイを見て人間の可能性を感じ、彼(?)についていくことを決めた。

「私」は四畳半の自分のありのままを受け入れ、踏み出せなかった分岐の先に進むことが出来た。樋口師匠もなんやかんやで旅に出た。

空は飛べないけど、飛べなくても建物を建てたり、他の物を飛ばしたり、何かに乗ることを考えることはできる。

鳶は空が飛べて人の弁当を搔っ攫っていくことは出来るだろうがこんなに高尚な思いに悩むこともでき無かろう。

私はありのままを受け入れるにはまだ時間がかかることだろう。でも、すくなくとも肩の荷が降りたような気がするのは、思い違いではないと信じたい。やるだけやって後で考えるのも悪くはないだろう。そう思えただけアニメで溶かした一日は有意義であった。しかしやることはまだあるにはあるのが現実の辛いところである。

まずは、口唇炎を治さなくては

5/6/17